近代の史跡

20世紀の戦争はつきだてにも暗い影を落しました。働き盛りの男性の多くは徴兵され、月舘に残った者も生活を切り詰め、町民、国民皆が否応無く戦争に巻き込まれました。

戦争によって、供給しなければならない食糧、衣類、武器弾薬、輸送手段、どれをとってみても従来よりもはるかに多い浪費がなされているのに、徴兵によって労働力が不足したことにより生産力が落ち、農作物や工業製品もたちまち不足をきたすようになりました。また、欧米との外交関係の不協和音の高まりから、日本が海外に依存しなければならない石油を始めとする地下資源などが思うように輸入できなくなり、物不足は一段と加速されます。この様な状況は、戦争が長期化するにともなって、年とともに深刻さを増していきました。

太平洋戦争がようやく終結したあと、町には戦没者を弔う慰霊碑が建てられました。今も中央公民館前にひっそりと立ち、お盆の頃には遺族により線香が手向けられます。

img_war1.jpg現在のような農業機械はほとんど無く、村に1台か2台あった石油発動機と脱穀機がわずかに特配の石油を使って稼動していたので、その機械が回ってくるのを順番待ちしてようやく脱穀できるという状態だった。機械が回ってくると、夜も昼もなく作業に取り掛かり、24時間体制で脱穀を続けて次の家に回す。作業は家族総出で行い、ようやく終わらせることができた。(「月舘町史」より引用)

明治4年(1871年)に文部省ができ、翌年八月には「学制」が施行されました。この学制により、はじめて全国的な学校制度が生まれました。全国を5万以上の小学区に分け、人口600人に一つの学校を作るという計画です。

月舘に最初にできたのは下手渡小学校でした。明治6年、県の役人の話を聞き、6月に民家を借りて開校しました。翌年9月には耕雲寺境内に校舎を建築し移転。県内では三番目の創立で、いち早い独立校舎の建設でした。下手渡藩の学問所があり、寺子屋の数も多かったことから、教育に対する関心も高かったのではないでしょうか。その後、他の地区でも民家を借りての開校、寺院に教育の場を移したり、統廃合を繰り返しながら、現在の小手小学校、月舘小学校の2校、更に月舘中学校ができ、今に至ります。

 

明治時代の学校は、在籍していても毎日登校していたわけではありません。また途中退学者も多く、就学率は50%に満たないほどでした。家での仕事を手伝う子ども達は多く、学業に専念できるものは一握りでした。「女子ハ一二、三歳にイタレバ紡績製糸ノ手工ニ従事スルヲ以テ退学スルモノ多シ」という文献も残っており、養蚕、絹織物の生産が盛んであった時代背景もあったのでしょう。

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昭和3年下手渡尋常小学校卒業写真 月舘中学校上空からの写真。
まだ新築だった頃の校舎だ。

(「月舘町史」より引用)

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