神社・仏閣やお祭り

img_fukawa-senju1.jpg広畑線より中古屋へ入って100メートルほど進んだ左側にある御堂が、千手観世音を安置してある観音堂です。創立は、寛永七年(1630年)大願主地方相衛門、世話人喜左エ門が清水寺住持を導師に招請し、千手観世音を奉祀した旨記した奉請の板札が現存しています。現在の堂宇は、寛政四子年(1792年)八月十八日施主銀蔵、世話人喜左エ門外六名によって再建されたもののようで「奉再千手観音堂造営別当茂林寺」なる板札も納められています。(「ふるさとの小径をゆく」より)

県道月舘臼石線、バス停「御前堂」の南、布川の清流を隔てて静かな木立の中に立つ御堂が「布川の御前堂」です。二間に二間の御堂は、つつましく小手姫への信仰を今に伝えてきています。

昔、小手姫がこの地においでになり、里人に養蚕と機織りの業を教え伝えたので、その御恩に感じた里人達の手によって祀られたものとの言い伝えがあります。

堂の近くに、姫が使われた筬(おさ=織機の象徴とされる道具)を埋めたといわれる「筬塚」がありまた、御堂から50メートル程布川をさかのぼったところには、姫が布を晒した(布を白くするため水で流うこと)という「布晒石(ぬのざらしいし)」があり、今でも巨岩の上を清流が走っています。

このように、数ある小手姫伝説の中心にこの御前堂があり、この辺一帯は神域として地域民の信仰の場でもありました。

今でも、御堂の格子には数多く繭が下げられ、信仰の続いていることがうかがえます。

大正二年には、岩倉卿が、小手姫ゆかりの地としてここにおいでになり、盛大な祭祀を行なった記録もあり、布川の御前堂は近隣にも聞こえたところとなっているのです。(「ふるさとの小径をゆく」より)

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蜂子の皇子を祀る羽黒山、そして蜂子の皇子の母、小手姫の御霊を崇めるお祭りです。昭和29年から始ました。現在は布川の御前堂の境内で行われています。

「和歌奉納」「玉櫛奉納」「霊山棒術奉納」の儀式を約1時間にわたって行う、厳粛なお祭りです。

img_fukawa-kumano1.jpg村石の入口、老松が聳える山の麓に伊弉諾命、伊弉再命、久久能智命の三柱を祀る布川の鎮守熊野神社があります。

神社の縁起として「熊野大権現麓山大権現両社宮慶長二年(1597年)羽州上杉様給人小梁川民部申仁勧請仕申候」という文書が伝わっています。その後、宝暦の大火で類焼し古記録の大半を失いました。

石の鳥居をくぐり、きざはしを登ると正面に拝殿があり、その奥に本殿があります。拝殿は大正十二年に再建されたもので、以前の建物は左手に遷されて古拝殿となっています。拝殿の右手には神馬庫、神輿庫を経て一メートルを越す大きな石塔が三基建てられていますが、昭和十七年に月舘町煙草耕作組合によって建立された「煙草大神」の碑は珍しいものです。

石塔を過ぎると農作の守護神「麓山(はやま)様」の社殿があります。大戦前までは、麓山籠りをはじめ「火渡り」の行や、口占(くちうら)など農作に関した神事が行なわれておりました。戦後はこのような神事は消滅してしまいましたが、拝殿前で行なわれた「火渡り」を記憶している人もいるのではないでしょうか。

麓山様の隣は、延命地蔵・愛宕様、金比羅様を合祀する社です。

拝殿の裏手から裏参道には石塔が多く建てられ、今でも参拝する信者の姿を見ることができます。

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 熊野神社には「三匹獅子舞」が伝わり、氏子の若者たちによって受け継がれてきました。伊勢参りのときおみやげとして獅子頭と舞を持ち帰ったといわれていますが、弓を中心として三匹の獅子が踊るたいへん活動的な舞です。一時は廃絶の危険にありましたが、若者たちによって継承され、大字団結の一事業として4月の祭礼の時に奉納されています。また、壮年の奉納する「太々御神楽」も欠かせないものでしたが、今では行なわれなくなりました。

舞の内容

1.おかざき
2.しおどり
3. 弓くぐり
4.そぞろき
5.歌ぎり
6. 雌獅子かけ合い

(「ふるさとの小径をゆく」より)

img_yakumo1.jpg下手渡城下町バス停で下車、西方徒歩十分ぐらいのところに八雲神社はあります。祭神は神速須佐之男命。

上杉景勝の臣、(小手六十三騎の一人)斎藤又左エ門が、尾州津島より分霊を請うて産土神としたと伝えられています。下手渡を一望に収める景勝の地に、周囲七メートルにも及ぼうかと思われる老けやきをはじめ、松や杉の大木に囲まれて高い石段の上に鎮まりかえっています。郷内全戸を氏子とし、旧六月十四日が例祭です。(「ふるさとの小径をゆく」より)

細布の道筋、月見館跡の南麓に鎮座するのが、赤城神社です。祭神は磐筒男命、磐筒女命、経津主命の三軍神です。

上州、赤城山より御分霊して祀ったものといわれています。初め、広瀬川辺の細布森に祀られ、元久元年(1204年)と伝えられておりますので、当町にあっては稀にみる古社といえます。

その後、現在の本山神社のところに遷り、天正年間、月見館主上杉の武将須田親重の守護神として現在の地に遷されました。武運長久の祈願所として武将の尊崇を集めました。

奥の院は、本山神社で、一の鳥居は明治の頃まで広瀬川の川岸上戸坂の下にありました。

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月舘地区赤城神社の祭礼は、4月19日、10月15日により近い日曜日ですが、以前は1~2月頃御託宣並びに湯の花の火事及び火剣等行なっていました。

春の祭礼には宮司による舞いや、氏子の傘踊り、カラオケなど賑やかな催し物まであります。(「ふるさとの小径をゆく」より)

img_suri1.jpg摺臼田に一戸とも二戸ともつかない変わった建物があります。左手が観音堂、右手が地蔵堂ですが屋根が続いているので一つの建物のように見えます。

観音堂の本尊、千手観世音は金泥仕上げの木像で宝暦年間の作とされています。小手郷順礼札所二十九番にもされており、御泳歌は「音もせず挽くかあらぬかするすの田、名のみも米の大悲なるらん」

地蔵堂には木製の延命地蔵菩薩像で宝暦十二年の作です。堂内に「奉禮請木佛地蔵大菩薩、文久二年戊九月二十八日」と書かれた棟札があるので文久二年(1862年)にここに祀られたものです。観音堂地蔵堂ともに、耕雲寺所属となっています。

はじめ、観音様と地蔵様と同じ堂内に安置されていましたが、部落内に起きたいろいろな災厄が、両者の同室によるものであるとの夢知らせによって別棟に建てることになった、という話も伝わっています。(「ふるさとの小径をゆく」より)

img_shinmei1.jpg月舘町のほぼ中央、国道沿いの石の鳥居をくぐって参道が続きます。

祭神は、産狭智命、八意思兼命、手置帆負命の三柱です。明治初年に稲荷神社を合祀、明治三十五年に出雲大杜の分霊を移祭し、今日に至っています。

 

 祭礼は年に二度あり、春の初午祭には前夜にお稲荷様を戸毎に配り、当日、氏子は神輿渡御に続いてお稲荷様を収め、火難厄除の祈願をするという珍らしい行事が今日も町内の若連によって続けられています。

 七月の夏越祭は、「ちのわくぐり」と称し、ちがやで作られた大きな輪をくぐり、厄除の紙形を納めるもので参拝者で夜遅くまで賑わいます。

 境内を囲むように多くの石塔が並んでいますが、その中の「秋山自雲霊神碑」は一般には「安洞霊神」と呼ばれています。秋山坊(崇山坊)が非業の死にたおれた後、この地域は度々の火災に見舞れたので、その霊を慰さめるために建てられ、安洞霊神と呼ばれるようになったといわれます。(「ふるさとの小径をゆく」より)

img_koshiki1.jpg町道上手渡線の傍らに立つ大鳥居が、小志貴神社の一の烏居で、ここから神域とされています。その一の鳥居から南西の方向に七百メートル進むと、杉木立の中に小志貴神社が鎮座しています。参道入口には、町指定重要文化財「小志貴神社牡丹獅子舞」の案内があり、この鳥居をくぐって石段を昇ると左右に部屋のある珍しい形式の表拝殿があります。その奥に拝殿、本殿が瓦葺きの重量感のある美しい姿を見せています。

当社は、天児屋根命を祭神とし、山陰中納言実友卿が神徳を感じて永久五年(1117年)に勧請建立したものと伝えられています。一説には豪族や支配者の崇敬する社と言われます。文永六年(1269年)、天正十五年(1587年)、寛永六年(1666年)、貞享元年(1687年)等の棟札が納められており、歴史の古さを物語ってくれます。

信達一統誌には、「むかし、甑敷内(こしきうち)という所より光明輝き、託宣があったのでお祀りした。それで甑敷宮と称するが春日大明神である。この村では甑敷を用いないし、用いるときは禍あると言われている…」との記事があります。これが社名の起こりでしょう。

上手渡地区には寺がなく、神葬祭が多いということも関係してか、境内には御神輿御神馬庫のほか、八幡神社、金比羅神社、天王様ほか多くの祠があり、里人の信仰の場でした。

牡丹獅子舞

小志貴神社には、隔年に奉納される三匹獅子舞があります。この舞の歴史は大変古く、天正十五年(1578年)、時の神官第十四世渡辺大蔵坊が里人とともに神社の再建をしましたが、それを喜んだ村人によって奉納されたのが始まりとされています。以来四百年間盛衰はありましたが今日まで継続されてきたものです。

もともと、この獅子頭は竹籠に張り子といった粗朴なものでしたが、明治四十三年篤志家により木製の獅子頭が寄進され、現在は木製のものを使用しています。

演技者の中心は、獅子児と軍配団扇もちの子どもで、氏子の長男から選ばれるのが原則です。

獅子舞の内容

長い冬眠を終わらせた獅子たちは、暖かい春を迎えてようやく活気を帯びてきた。田を耕し、種子を蒔き、農作物にあだなす鳥獣を追い払いひと段落した頃、牡丹の花の咲き競う花園において、しばしこの世の春を心ゆくまで楽しむのであった。そして、この自然の恵みの中で、一匹の雌獅子を求めて二匹の雄獅子が相闘う。やがて両者は力の差が次第に現れ、ついに後獅子は先獅子の前に屈服しなければならなくなる。

力尽きた後獅子は、先獅子の前に和を請い臣従を誓うことになる。牡丹の花の咲くこの里にも再び平和が訪れる。

1.    道きり(道中の舞) 2.おんでん舞(参拝の舞) 3.舞いこみ(挨拶・敬礼の舞) 4.でんす(田畑耕作の舞) 5.そうばん(鳥追いの舞) 6.おかざき(悪魔退散の舞) 7.かかし舞(楽園・団らんの舞) 8.うたぎり(庭がための舞) 9.花まわり(歓喜・歓楽の舞) 10.牝じしかけあい(牝獅と争う舞) 11.舞いがため(平和再来の舞) 12.花もぎり(万歳楽の舞)

(「月舘町の民俗」、「ふるさとの小径をゆく」より)

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牡丹役の“花笠かぶり”、争い傷ついた獅子を介抱する役“漢方医”などは、牡丹獅子舞独特のものである。

img_16rakan.jpg羅漢とは、阿羅漢の略語で、真人と訳され、聖人を意味します。即ち、完全に悟りを開いた功徳の備わった最上の仏教修行者のことで、禅宗では修業の階程として造立、崇拝されています。十六羅漢のほかに、十八羅漢、五百羅漢などがあります。

第一尊者は賓度羅跋羅惰闍尊者(ピンドラバラダジヤーソンジヤ)、一般に「オビンズル様」と呼ばれています。 このオビンズル様の背後に信州高速滝口村亀右衛門、泰道の名が刻まれており、作者名の明らかな石像で数少ないものです。小手風土記には、石ノ羅漢天明年中日州恵輪和尚建立と記されていますので、1780年代に作られたものでしょう。福島の黒岩山満願寺にある十六羅漢像より古いものです。

最近までは、部分的に金箔がはってあったということで、松林の中に立つ姿には、荘厳をとおりこして恐ろしい感じさえしたとは古老の話です。

ほぼ、完全な形で現在に至っているその姿は、周囲をとりまく松の古木のかもし出すふん囲気とともに、修業僧の理想と地域の人々の真摯な信仰の心を今に伝える貴重な文化財として守られています。(「ふるさとの小径をゆく」より)

国道三四九号線、酒呑ノ入の入口を入るとすぐ右側に整然と石塔が並んでいます。

中央にいます、右手に剣を持ち、背に双翼を張り、火焔光を負い、白孤の背に立つ烏天狗面の像は「飯縄権現(いいづなごんげん)」といい、また、秋葉大権現とも秋葉様とも呼ばれる火伏せの神です。度々火災に見舞われた月舘の人々がとくに厚く信仰した神で、現在も川組(舘ノ腰、梶内、酒呑ノ入)の信仰の要となっています。寛政九丁巳(1797年)3月18日の造立です。

秋葉様の右側には、大神宮(天保十五年)(1844年)左に湯殿山(天明八年)(1788年)巳待塔(安政四年)(1857念)のほか多くの石碑が建てられ、信仰の有様を伝えています。

以前は、4月3日が祭日で、村社の宮司を祭司として祈祷後、持ち寄りの酒肴で宴をはりました。この風習は江戸時代からのものといわれます。当日、子どもたちが、紙の旗に「神武天皇祭」と自分の名を書き奉納した時代もありました。(「ふるさとの小径をゆく」より)

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現在では「秋葉神社祭」となり、7月17日近辺の日曜に例祭が行なわれています。

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